資料室から、再び大学院へ?博士後期課程?岩間有希奈さんインタビュー
外大生インタビュー

労働環境の変化、技術刷新、少子高齢化などを背景に、「リスキリング」「生涯学習」「学び直し」といったテーマは、さらなる注目を集めています。今回、TUFS Todayでは、これらのテーマについて職務経験のある院生へインタビューを行い、みなさんのご経験をお聞きする企画を立てました。
今回インタビューにご協力いただいたのは、博士後期課程2年の岩間 有希奈(いわま?ゆきな)さん。岩間さんは、2018年に本学の博士前期課程を修了。その後は大学の資料室担当として働き、2024年4月から博士後期課程に入学されました。大学院へ入り直したきっかけや、これまでの経験について、お話を伺います。
取材担当
大学院総合国際学研究科博士前期課程2年 星野 花奈(広報マネジメント?オフィス 学生広報スタッフ?学生ライター)
――本日はよろしくお願いします。早速ですが、まずはご経歴からお伺いしてもよろしいですか?
よろしくお願いします。まず、学部は東京外大ではなくて、別の大学の文学部史学科を卒業しました。学部には4年間通い、そこで学芸員の資格も取りました。そのあとはすぐに東京外大の博士前期課程に進学しました。博士前期課程では、ドイツ?ヨーロッパ近現代史がご専門の相馬保夫[1] 先生のゼミに所属していました。修士論文のテーマはヴァイマル期ドイツの青少年福祉と労働者青年運動で、2018年3月に修了しました。そのあとは東邦大学の資料室担当として働き、2023年4月から1年間本学で研究生として過ごして、昨年の2024年4月から博士後期課程に入学したという形です。
[1] 相馬保夫:欧宝体育平台_欧宝体育在线-app下载名誉教授。専門はドイツ?ヨーロッパ近現代史、労働者の文化?運動史など。
――ありがとうございます。次に、今の研究テーマについて教えていただけますか?
今は小野寺拓也教授のゼミに所属していて、研究テーマはヴァイマル期ドイツの女性医師と青少年福祉の関係性についてです。女性医師といっても、「女性の医師同士の国際的なネットワークが、ドイツ国内の青少年福祉にどう影響を与えていたのか」というところに注目しながら研究しています。
――ヴァイマル期の青少年福祉に関心を持ったきっかけは、なんだったのでしょうか?
そもそもヴァイマル期のドイツに興味を持ったきっかけは、2012年12月に公開された朝日新聞の社説でした。その社説は、ベルリンで行われたドイツ連邦議会の回顧展を紹介しているものだったのですが、そこでヴァイマル時代のドイツの状況を読んで、当時の東日本大震災後の日本の選挙や政治の状況に重なるものを感じ、そこからドイツのヴァイマル期に関心を持ち始めました。
福祉に関心を持ったのは、「行き着いた先がそこだった」という感じがあります。第一次世界大戦のドイツでは多くの人が戦死したため、次世代を担う青少年の育成に視線が向けられていました。青少年福祉の拡充が図られたのも、このヴァイマル期でした。しかし、世界恐慌などの影響を受け、青少年福祉のための財源が削減されるなど、時代に翻弄された側面がありました。
そして、この青少年福祉の管理者の役割を果たしたのが、女性医師たちだったということが最近指摘されています。しかし自分の修士論文では、先行研究に従って男性医師の名前を挙げていました。「この時代の医師は男性だろう」と、自分の中にアンコンシャスバイアスのようなものがあったんだと思います。あとになってから「なんで女性医師を扱わなかったんだろう」とすごく後悔して。そうしているうちに、仕事で「日本の女性医師の歴史」を扱うことになって、「これは女性医師についても研究するしかない」と思い始めました。
――「歴史学×自然科学」というようなテーマに関心を持ってきたんですね。
そうですね。いわゆる「文系」である人にとって、「理系」の分野は少しハードルがあるじゃないですか。私自身も医学の詳細を見るのは難しいというのが正直なところですが、医学と社会の歴史を扱うことに抵抗感がなかったことの一つには、小さい頃に行っていた新潟県立自然科学館があると思います。近くにあって行きやすかったのもあり、そこで自然科学に触れていました。
あとは、大学附属の高校に通っていて、明確な文理選択がなかったことも大きかったと思います。選択授業でも「何をとってもいいよ」という感じだったので、理系科目をシャットアウトせずに来られたというのもありました。
さらに、私が学部時代に通っていた大学は、女性に対する自然科学教育をとても早い段階で始めた大学だったんです。そういった女性に対する自然科学教育の歴史を、高校の段階から叩き込まれていたというのも大きかったと思います。いわゆる「文系」の人よりは、自然科学に近い場所にいたんだと思います。

大人になっても楽しめる場所。(2022年)
――そういった経験が、研究テーマにもつながっているんですね。次に、博士後期課程に入学したきっかけについて教えてください。
修士に行くことは学部2年生くらいから考えていたのですが、博士後期課程に行くかどうかは、なかなか想像がついていませんでした。実際に博士前期課程に入っても、博士後期課程の先輩たちを見ていると、本当に大変そうだし、中途半端な気持ちで行くところではないのかな、と正直感じていました。
その時から、「一度社会に出て、それでもまだ『博士をやりたい』という気持ちが固まってから大学院に戻っても遅くはないんじゃないか」と思っていました。というのも、学部の時も修士の時も、身近なところに社会人入試で入学してきた方々がいて、その人たちと授業以外でも仲良くしていただいていて。そうしていろんな話を聞く中で、そういった方々の学問に真摯な姿勢を見ていましたし、「何歳になっても学び続ける素敵な大人」に出会えました。そうした経験から、一度大学から離れることへの抵抗が全然なかったというのは大きかったと思います。なので、博士後期課程に入学しようと思った明確なきっかけがあったというよりは、仕事をしながら覚悟を決めていった、という感じです。
――お仕事は何をされていたんでしょうか。
学校法人東邦大学の額田記念東邦大学資料室の担当者として5年間働いていました。具体的な業務内容は、資料収集?整理、調査、展示作成、レファレンスでした。レファレンスでは科学史関係の先生方が来てくださって、そこで今の研究テーマにつながるような仕事をすることもたくさんありました。基本的にこれらの業務を一人で回していたので、資料収集のために出かけて、レファレンスをして、空いている時間で展示を作成して……という感じでした。それが今の感じと似ているんですよね。やらなきゃいけないことをやりつつも、他の時間でいかに集中して自分の研究を進めるかというところがあるので。あの時に忙しさへの耐性がついたんだと思います。
展示作成については、5年間で5つほどの企画展を担当したのですが、学芸員の資格を持っていて、なおかつ歴史学を学んでいたのが部内で私一人だけだったので、私の裁量が全てという感じでした。いわゆる査読のようなチェック機能がなかったので、それが本当に恐ろしいことでした。修士を出たばかりの私がそんなことをやっていいのかというのもありましたし、展示が独りよがりな内容になるんじゃないかというのが、すごく怖かったです。自分が未熟なまま仕事をしている自覚があったので、もっと修行が必要だなと思い、博士後期課程に行くことを考えるようになりました。
さらに、企画展を作っていく中で、修士論文の内容とつながるような、さらにそれを発展させられるような視点を得られたというのもありました。これらが大学院に入り直そうと思ったきっかけの一つというか、一連の流れという感じで、すべての経験が今につながっているんです。

――「学び直し」を決めるまでの考えていたことや、決断の難しさはありましたか?
博士後期課程に進学したいと思う一方で、仕事もすごく楽しくて。職場の周りの人たちも素敵な方々ばかりでしたし、そのまま仕事を続けていくこともあり得ることでした。西洋史だけを学んでいた私にとって、そのポジションは狭き門でしたし、「この仕事を辞めたら、二度と同じ仕事に出会えない」と分かっていたので、辞める決断をするのにはすごく時間がかかりました。
ただ、そうやって迷っている時には、行きつけのビール屋さんで人生の先輩方に相談していました。そこで話を聞いてもらっていたんですが、みんな背中を押してくれて、「やりたいと思った時やらないとダメだよ」と言ってくれました。そして、話を聞いてくれたみなさんも学びを続けていたんですよね。仕事をやりながら資格の勉強をしたり、英語の勉強をしたり、研修に行ったり……。そこで、「学びを続けなきゃ」と思いました。「学び直し」というと全てがリセットされているかのようですが、そうではなくて、それまでも続けてきた「学びを深める」という表現がいいのではないかと感じます。
一度くらい転んでも、回復する術は仕事をしている5年間で学んだので(笑) そうした経験をする中で、博士後期課程に進む覚悟をしたという感じです。

ここに来なければ今の自分はいなかったかも。
――「学びを深める」というのは、すごく素敵な表現ですね。その後に、研究生として1年過ごされているんですよね?
そうです。ただ、大変だったこともあって。どうにもならなかったのがドイツ語でした。5年かけてしっかり忘れてしまった言語を取り戻すのは、結構時間がかかりました。仕事でも度々ドイツ語を目にはしていたんですが、しっかりと文献を読むということはなかったんです。なので、2023年4月からは研究生として「ドイツ語を取り戻す期間」を作っていただきました。あれだけ修士の時に泣きながら読んだドイツ語を忘れるんだなと……(笑)

一度の旅行で博物館や記念館などを6ヶ所巡ることも。
――そうした研究生の期間を経て博士後期課程に入ってみて、実際どうでしたか?
楽しくて仕方がないですね。先生からも厳しくも温かいご指導をいただけるうえ、ゼミ生も同じような地域、テーマに関心を持っている人が集まっていて、各自のテーマに真剣に取り組んでいます。とても理想的だし、居心地の良い場所です。そして、自分のテーマに関心を向けてくれる空間のありがたさに、入り直して改めて気づきました。
あとは、大学の図書館が使えることは本当に重要です。仕事場は理系の大学だったので、歴史学の研究書を手に入れるのは大変でした。他大学から取り寄せたり、公立の図書館をはしごしたり……。時間とお金がものすごくかかっていたんです。本学だと大学院生は資料の取り寄せにも支援がいただけますし、図書館の方々も迅速に対応してくださるので、本当にありがたいです。こうした図書館の支援は、ずっと続けていただきたいです。
――図書館の存在は、本当に大事ですよね。次に、今後どんなことをしていきたいのか、将来の目標などがあれば、お聞かせいただけますか?
まずは博士論文をしっかり出すことですね。また、今の自分の研究テーマでは女性の資料を扱うことが多いのですが、残念ながら「女性の資料だから」と廃棄されてしまう資料も多いんです。なので、個人が所有している資料が捨てられないように、資料収集の段階から気を配っていきたいですね。
そして、将来的には研究内容をより分かりやすくして、研究者以外の多くの人々にも届けることができればと考えています。それが本を出版することなのか、展示を通して伝えるのか、その形態はさまざまだと思っています。まずは、留学や資料収集、論文を発表するなど、目の前のことを一歩ずつ丁寧に進めて、博士論文という形にしていきたいです。自分が持っているものを社会に還元していくことができる研究者になりたいと考えています。

めずらしく一般公開されていた際、特設カフェでお茶を頂くなど。(2024年)
――最後になりますが、本学の学生や、広く社会に伝えたいことはありますか?
「この経験が何の役に立つんだろう」と思うことは誰しもあると思うんですけど、そうしたちょっとした「点」でしかなかったものが、「線」になることが結構たくさんあって。たった5年ではあったけれど、仕事をしていた中で生まれたいろいろな「点」が今につながって、流れてきているというのがあるので、「寄り道とか回り道はたくさんしていきましょう」と思います。本当に何一つ無駄なことはありませんでした。きっとこれからもそうだと思います。
「学び直し」とよく言いますが、意外と社会人は「学び続けて」いるものだと思います。それをさらに深めるといった意味で、大学や大学院に来るのも一つの道だと思います。